あの人気商品はこうして開発された「飲料編」

「ホッピー」まがいものはつくらない!“本物”だけにこだわった

「あの人気商品はこうして開発された!」 「ホッピー」-まがいものはつくらない!“本物”だけにこだわった 1948年、ホッピーが発売された。東京・新橋の大衆居酒屋に登場したホッピーは焼酎の割り材としてもてはやされた。ノンアルコールビールで焼酎を割る。この飲み方は居酒屋に集まる大衆が考え出したもの。そう、ホッピーは庶民の知恵が用途を生み出した飲料だったのだ。

昭和の味、東京の味、下町浪漫の味…

さまざまに形容されてきた「ホッピー」は、ビールの代用品かつ焼酎の割り材として飲料市場で独特のポジションを占める。東京・新橋の大衆居酒屋を拠点に広まったこのロングセラー商品、典型的なオヤジ飲料のように思われるかもしれないが、ところがどっこい。いまや女性ファンも急増し、幅広い層に愛されているのだ。

今宵も喧騒ただ中の居酒屋で「ホッピーセット!」「中ください!」「外ください!」と注文の声が飛び交うだろう。まずはその人気商品の生い立ちから見ていこう。

(*ホッピーセットとはホッピーと焼酎の組み合わせ、中は追加で注文する焼酎、外は追加で注文するホッピーを意味する)

本物でなければつくらない!

1910(明治43)年、東京・赤坂一ツ木町(現赤坂5丁目)にラムネ飲料の製造・販売会社、秀水舎が創業した。現在のホッピービバレッジの前身で、創業者は当時わずか15歳の石渡秀氏(故人)。ホッピーの生みの親である。

大正期に入ると日本でノンアルコールビールが流行し、ラムネ飲料メーカーだった秀水舎にもノンアルコールビールを生産してほしいと依頼がくる。ところがこの時代、ビール市場は大手メーカーの寡占状態だったため、原料もほぼ完全に押さえられていた。ことにホップの入手は困難だったこともあり、頑固一徹だった秀氏は「ホップがなくてなにがビールか、本物でなければいけない、まがいものをつくるわけにはいかん」とにべもなく生産要請をはねつけた。

しかし、清涼飲料一本やりの経営は頭打ちで、夏場しか商売にならず冬はべんべんと遊んでいるしかなかった。そんな折、雪国のほうが商機があるとの示唆を耳にする。発想を転換させれば、寒冷地のほうが暖房が行きとどいているから、冬場でも清涼飲料水が売れる、と。

そこで秀氏は即断即決で信州・野沢にラムネ工場を設けた。この工場建設が後のホッピーを開発するきっかけにもなった。というのも、戦中の長野県は日本最大のホップ生産地であり、そのすべてをビール会社が契約栽培していたが、秀氏は人脈を介してなんとかホップを入手できたからだ。これなら本物のノンアルコールビールをつくれる。まさに小躍りせんがばかりの喜びだった。

1948(昭和23)年7月、ホッピーが誕生した。発売当初の名称は「ホッビー」だったが、発音しにくいことから「ホッピー」に改められた

早速、ノンアルコールビール製造に乗り出すことを決意。実弟を東京・滝野川にあった醸造試験所に送り込んで醸造を学ばせた。

「酵母は醸造試験所から譲り受け、ホップは信州で入手してノンアルコールビールの試作が始まりました。現在のホッピーにつながる飲料誕生の始まりです」

(ホッピービバレッジ社長・石渡美奈さん)

が、間が悪かった。第2次大戦の戦火が激しくなり、時代はノンアルコールビールどころではなくなる。赤坂のラムネ工場も軍用機の計器工場として接収されてしまった。

それでも機は訪れる。やがて敗戦で赤坂一帯は焼け野原になり、工場も灰燼に帰してしまったが、秀氏はすばやく行動を起こした。信州・野沢の工場から機械設備を赤坂に移して再建に着手する。敗戦で砂糖の入手が困難なため、ラムネ製造の再開は当面は不可能だった。しかし、戦前に開発したノンアルコールビールの醸造技術なら活路を見いだせる。48(昭和23)年7月、秀水舎をコクカ飲料に改組し、本格的なノンアルコールビールの製造・販売を開始。ホッピーが誕生した瞬間だった。

ホッピーが発売された当初の名称は「ホッビー」だった。その由来は、本物のホップを使った本物のノンビア(ノンアルコールビール)の意味にあるが、どうも発音に違和感があって覚えにくい。そこで「ビ」を澄んだ音の「ピ」に改め「ホッピー」に改名した。

「焼酎+ホッピー」飲み方は大衆が創った

現在、ホッピーを製造・販売するホッピービバレッジ(本社・東京赤坂)は年商約40億円、従業員55人の中小企業だが、首都圏でホッピーの勢いはとどまるところを知らない。実際、大衆酒場でホッピーを注文しなくても、壁に貼られたホッピーの宣伝文字がいつの間にか脳裏に焼きついてしまうようなインパクトの強い商品といえる。

ホッピービバレッジは前身の秀水舎から数えて創業100年超の老舗だ。経営トップの座は、創業者・石渡秀氏の後を長男の光一氏(現会長)が継ぎ、さらに孫娘の美奈さんが2010年に3代目社長を継いでいる。

ホッピーは全国47都道府県に出荷されているが、その8割超は東京、神奈川、埼玉の首都圏で消費される。むやみに販路拡大はせず、軸足は東京を中心とした関東圏に置いている。東京生まれ、東京育ちの強烈なオリジナリティを発する飲料。そんなホッピーの誕生後の話を続けよう。

2010年に3代目社長に就任した石渡美奈さん

戦後間もない東京は、新橋、新宿、渋谷などの焼け跡に闇市のバラックが立ち並んでいた。一杯飲み屋では、「カストリ焼酎」や工業用アルコールを水で割って色をつけた「バクダン」なる粗悪な密造酒にまで人が群がった。飲めたようなしろものではなくても、なけなしのカネをはたいて酔いつぶれようとする。物資窮乏の影が庶民に重くのしかかっていた。

そんな戦後も3年を経ようとしていた48年7月、ホッピーが発売された。ビールなど高嶺の花で手の届かない時代、焼酎をホッピーで割る飲み方が人々の間で自然に生まれた。安価な焼酎でもホッピーで割ればビールのような味になる。庶民の知恵だった。この飲み方はまたたく間に市民権を得て疾風のごとく広まり、ホッピーは爆発的にヒットして最初のブームを迎えた。

飛ぶように売れると生産で問題も生じた。びんの調達だ。

「びんの確保も困難な時代です。そこで米国の進駐軍が廃棄するビールびんを瓶商から買い集めて間にあわせました。だから当時のびんの形状はまちまち。やがて大手ビールメーカーの輸出用のびんを融通してもらうようになりましたが、そんな経緯もあってホッピーのパッケージはロゴも含めどこか米国のビールっぽいんです」(美奈さん)

ホッピーのアルコール度数は0.8%だが、1%未満の微妙な度数に抑えるところに製法上のノウハウがある。技術的に見れば「ビールよりホッピーのほうが製法は難しい」そうだ。ちなみに製法特許は1956年に取得している。

1日20万本を売り上げる

発売当初から現在に至るまでボトルデザインは一貫してほとんど変わらない

やがて戦後混乱期のホッピーブーム(第1次ブーム)は終わる。焼酎の割り材としての需要は下町の大衆酒場を中心に一定の底堅さは保つが、可処分所得が向上して消費者のライフスタイルが変化すると、アルコールの嗜好も多様になっていった。その煽りを受けてホッピーの勢いにも陰りが見えた。

そんな時代の67年、サラリーマンだった石渡光一氏が父・秀氏に呼び戻されて社業を継承。生産体制一新の進言を秀氏に受け入れられ、調布市に新工場を建設する。これによりホッピーの品質を安定化させ、さらにびんも独自の金型で製造し、流通用の木箱も破損しにくいP箱(プラスチック製箱)に一新した。

こうした改革が奏功し、70年代後半から需要が急伸して第2次ホッピーブームを迎える。この時代、社会人5、6年目の団塊の世代がリーズナブルなホッピーを支持したこともあり、81年にはついに1日に20万本を売り上げるほどのピークに達する。

しかし、ブームには必ず浮沈がある。翌82年に発売されたかんきつ系炭酸飲料の爆発的ヒットに押され、ホッピーはまたしても劣勢に追いこまれてしまった。

低カロリー、低糖質、プリン体ゼロの3つのハッピー

「低カロリー、低糖質、プリン体ゼロ」と3つの特徴が健康志向に合致することを訴える。一般消費者向け商品のホッピー(左)と4種類の麦芽をブレンドして香ばしさと苦みをほどよくバランスする黒ホッピー

そして80年代半ば以降は雌伏の時期。さらなる品質向上のために設備の更新や技術者のスカウト、新しい酵母の導入などつぎつぎと手を打つ。が、なかなか売上の回復にはつながらず、90年代後半までホッピーの低迷は続く。この間、95年にコクカ飲料からホッピービバレッジに改組した。

その低迷期の最中、97年4月に美奈さんが入社。持ち前の気丈さで社内の暗澹たる雰囲気を払拭すべく、経営のリーダーとして敢然と苦境に立ち向かう。

99年に同社のウェブサイトを立ち上げ、ホッピーの情報発信を開始する(2002年にオフィシャルサイトを開設)。

「IT革命はありがたかったです。それまではマス媒体で広告しないと情報がエンドユーザーに伝わらなかったのに、インターネットなら当社のような中堅・中小企業でも低コストで情報発信が可能になったのですから」

2000年代、女性の社会進出が当然視される時代になると、個性的な女性経営者にも注目が向く。テレビ番組や雑誌で石渡さんが取り上げられる機会が増えるのと同時に、「低カロリー、低糖質、プリン体ゼロ」など健康志向に合致する成分をアピールしたり、「ホピトラ」と称する車体全面にホッピーやキャラクターを描いた配送用トラックを走らせる広告戦略などにより、にわかにホッピーへの注目度が上がっていった。

車体全面にホッピーを描いた輸送用トラック「ホピトラ」。これで輸送することで流通と宣伝の両方をこなせる

「あるコスメ雑誌に、官庁の女性キャリアが虎の門界隈でホッピーを飲んでいるという投書があり、それが編集者の目にとまったそうです。キャリアの女性が飲むホッピーってなんだ?と。このインパクトは大きかったです。その後、矢継ぎ早にメディアにホッピーが紹介されました」

ウェブサイトやマスメディアを介してホッピーブランドの拡大を図った結果、ホッピーの業績は02年(売上高8億円)を底に一転して増収増益をたどり、10年には売上が約40億円と5倍の成長を達成した。

増え続ける女性ユーザー

具体的な調査結果ではないが、同社によればホッピーのメインユーザーは40代で、男女比率は男性6:女性4。特に近年は女性ファンの増加傾向に目を見張るものがあるという。

また、飲食店ばかりでなく量販店での販売も増えており、現在は業務用7割、小売用3割の売上比率だ。最近は不景気の影響で家飲みが増えていることと、ネット販売で首都圏以外でも購入できることから一般消費者の購入が増えているようだ。

業務用、小売用とも販売を全国へ展開すれば売上の拡大が図れるが、そういう考えは毛頭ないようだ。美奈さんはいう。

「地元の赤坂には1600の酒類取扱店がありますが、そのうちホッピーを扱っていただいているのがまだ200店くらいです。まだまだ首都圏でやることがいっぱいあります。全国展開なんて現段階ではまったく考えていません。それよりサービスの質を向上させることが先決です」

まずはしっかりと足元を固める。東京生まれ・東京育ちのホッピーの軸足は首都圏に置くことでぶれがない。むしろ、「身の丈というものがその商品やその企業にはある」(美奈さん)というように、独特の飲用法やファン、地域性、そしてブランドを守りながら成長するには、無理な背伸びは厳禁ということだろう。

今宵も「ホッピーセット!」「中!外!」という声が飛び交う。それを徐々に拡大することがホッピーの王道なのだ。

企業データ

企業名
ホッピービバレッジ株式会社
代表者
代表取締役社長 石渡美奈
所在地
東京都港区赤坂2-15-12
Tel
03-3583-8255

掲載日:2011年10月14日