売上高100億円への軌跡

業界の常識打ち破り、純米大吟醸をつくる 世界市場にチャレンジ【株式会社獺祭(山口県岩国市)】

2025年 7月 23日

株式会社獺祭の桜井一宏社長
株式会社獺祭の桜井一宏社長

日本酒好きであれば知らぬ人がいない超人気銘柄「獺祭(だっさい)」。その名は日本だけでなく、海外にも広く知れ渡っている。山口県岩国市にある製造元の株式会社獺祭は2024年度に売上高195億円を計上。業界トップクラスの売り上げを誇っている。かつては存続すら危ぶまれた小さな酒蔵だったが、業界の常識を打ち破る手法で純米吟醸酒の製造に挑戦。さまざまな試行錯誤と失敗を繰り返しながら、「獺祭」を世界ブランドに育て上げた。

海外展開見据え、社名をブランド名に統一

獺祭ストア本社蔵に並べられた商品
獺祭ストア本社蔵に並べられた商品

「獺祭という会社が獺祭をつくっている。『獺祭一本で世界に挑む』という思いを新社名に込めた。私たちが今まで取り組んできたことをさらに未来につなげていくために社名を変更した」。こう語るのは、四代目蔵元で代表取締役社長の桜井一宏氏。2025年6月に旧社名の旭酒造からブランド名に社名を統一した。将来の海外展開を見据え、知名度を高めることを狙った戦略だ。

獺祭が作る日本酒はすべて純米大吟醸。原料には最も酒造りに適している山田錦のみを使用。精米歩合を50%以下まで磨き上げ、米麹、水のみを原料に製造する。特に米の磨きにはこだわりを持ち、獺祭を代表する高級酒「磨き 二割三分」は精米歩合23%まで磨き込んだ米を使用する。他に類をみない香り豊かで芳醇な味わいの酒をつくり上げ、舌の肥えた日本酒党をうならせている。

2023年には米ニューヨークに酒蔵を開設。世界のビジネスの中心に拠点を設けることで、獺祭の魅力を世界に発信している。世界市場の開拓によって獺祭が目指す将来の売上高は1000億円。足元の売上高の5倍という高い目標を掲げている。

杜氏が去り、社員たちが酒造り 苦難続いた純米大吟醸

本社蔵での仕込みのようす。高温の室内での作業だ
本社蔵での仕込みのようす。高温の室内での作業だ

会社の設立は1948年。そのルーツは江戸時代までさかのぼるそうだ。当時は山口県の山奥にある小さな酒蔵で、日本酒離れが進む中、販売不振にあえいでいた。桜井氏の父で現会長の博志氏が1984年に酒蔵を継いだことがその後の躍進につながった。

三代目の博志氏は、これまで作り続けてきた醸造用アルコールを混ぜた安価な普通酒がほとんどという製造に行き詰まりを感じ、純米大吟醸造りに挑戦する。桜井氏によると、「三代目が当時、まだ『幻の酒』のような位置づけだった大吟醸という酒に可能性を感じ、取り組み始めた」のがきっかけだったという。

純米大吟醸の製造は普通酒に比べ、時間も手間もかかる。「獺祭」は1990年に誕生したが、当然、その後も手探りでの品質改善が続いた。それと同時並行で地元から外の市場にチャレンジ。さまざまな市場にアプローチする中で、東京の市場に可能性を感じ始めた。東京では無名の酒を三代目自ら飲食店や居酒屋を営業に回り、顧客を獲得していった。

ところが、そこで大きな危機が訪れる。新規事業として始めた地ビール事業が失敗。経営危機に陥った。すると、酒造りの柱となる杜氏が、純米大吟醸造りという今までとは違う挑戦にストレスを感じていたこともあり、職人を連れて酒蔵を離れてしまった。大きな窮地に追いやられた。博志氏は杜氏に頼らず社員たちの力で一から酒造りを行うことを決意。日本酒業界の常識を破る戦略に打って出た。そんな中でデータ重視の酒造りという特徴が生まれていった。

桜井氏によると、純米吟醸酒造りをスタートさせた当初から製造過程のデータ収集を続けていたという。博志氏にとっても杜氏にとっても初めての挑戦。試行錯誤する中で集めたデータがその後の獺祭のビジネスモデルの原点となった。「ブラックボックス化されて共有化できなかった杜氏の技術がデータをとることで『見える化』された。必要に迫られてやったことだったが、それがいい方向に進んだ」と桜井氏は語った。

杜氏制度をやめると、冬季のみに季節雇用で職人に来てもらう体制に変化が起きた。それまで期間が限られていた酒造りが通年でできるようになった。「4、5月くらいでやめていたのを、6月までやってみよう、7月もどうにかなるのでは、と頑張っているうちに年間を通して生産できるようになった」と桜井氏。また、杜氏という外部の職人ではなく社内で製造を行うことで「見える化」が進み、杜氏や職人たちの中でブラックボックスと化していた技術やノウハウを社内に蓄積することができた。徹底的なデータの活用によって暗黙知を形式知化し、属人化していた業務を標準化する。まだDXという言葉が存在しなかった1990年代から取り組んだDXが成長を加速させた。

本社蔵建て替えで製造量が拡大 100億円の大台に

一般的な酒蔵よりも小さな仕込みタンクできめ細かい管理を行っている
一般的な酒蔵よりも小さな仕込みタンクできめ細かい管理を行っている

会社の売り上げが100億円の大台に乗ったのは2016年度。ちょうど桜井氏が四代目蔵元として社長に就任したのと同じ時期にあたる。前年度70億円だった売上高は65%も増加。2年前に比べて出荷量は2倍に急伸した。

2012年度から進めていた本社蔵の建て替えが2015年度に完了し、本格稼働。生産量が従来の年間1万6000石(1升換算で約160万本分)から3万石(約540万本分)に増強された。手に入れたくても手に入れられず、「幻の酒」と言われていた獺祭だったが、それは目指すところではなかった。品質と量を同時に追求する消費者の手に届きやすい環境を整えた。

売上高100億円は経営者にとって大きな節目ともいえる。だが、桜井氏はあまり意識していなかったという。「当時はお酒を供給するので一杯いっぱい。供給できないことが課題だった。本社蔵の完成で供給のめどがつき、それに伴って売り上げ規模が拡大した。いろいろな努力をしながら気づいたら100億円。そんな感じだった」と桜井氏は当時を振り返った。足元の供給対応に本社蔵の建設、さらに設備増強と品質追求にあたっての人材の育成…。さまざまな課題をクリアしたうえでの成果だった。

そのうえで、「売り上げを追いかけて営業の目標数字をつくると、市場に無理やり押し込んだり、製造に変な圧力をかけたりしてしまう。マーケットは伸ばすし、伸ばすための開拓努力はするが、目標数値を目指してモーレツに頑張るということはしなかった」と語った。

アメリカに酒蔵「世界で日本酒が売れる文化を作る」

「世界で日本酒が売れる文化を作る」と語る桜井氏
「世界で日本酒が売れる文化を作る」と語る桜井氏

獺祭の成長には海外展開という、もう一つのチャレンジが大きな原動力となっている。その立役者となったのが桜井氏だ。

桜井氏は大学を卒業後、すぐに家業に入らず、大手レジャー会社に入社した。市場が縮小する日本酒業界。あまり家業を継ぐ気はなかったそうだ。勤務していた会社は地方にあったが、東京にオフィスを構えたことから、都内の居酒屋でお酒を飲む機会が増えた。ある時、店で獺祭を見つけ、飲んでみると、他社の日本酒よりも断然おいしいことを再認識した。それが家業を継ぐ決心に結びついた。

2006年に入社後、常務となった桜井氏。三代目から海外担当を命じられた。「マーケティングというと偉そうだが、要は『ニューヨークで売ってこい』ということだった」と桜井氏。居酒屋や酒屋に飛び込み営業するなど販路拡大に駆け回った。すると、東京進出のときと同じように口コミでその評判が広がっていった。「ニューヨークは金融都市。世界中にビジネスマンが渡っていく。ニューヨークから香港、パリとお客さんが世界に広めてくれた」。

国内と海外との売り上げ比率をみると、足元では海外は3分の1程度だという。だが、インバウンドが国内の免税店などで土産物として購入したものを含めると、5割以上は海外需要が占めるとみている。

2023年にニューヨーク州ハドソンバレーに開設した「DASSAI BLUE SAKE BREWERY」では、日本のベテランスタッフと現地のスタッフが日本と同じ製法で現地栽培した山田錦を用いて純米吟醸酒を製造する。桜井氏はこの酒蔵について「世界で日本酒が売れる文化を作っていくための前線基地」と位置付けている。「まだ、米国でも日本酒の販売額は0.2%程度。日本文化に関心が高いと言われるフランスはもっと小さい。その意味でもポテンシャルは大きい」と大きな期待をかけていた。

失敗と方向転換…その繰り返しから成長の種が生まれる

緑豊かな山間地に建てられた地上12階建ての本社蔵
緑豊かな山間地に建てられた地上12階建ての本社蔵

獺祭のすごさは、SNSのない時代に口コミでその人気が広まっていった点だ。広告宣伝費にはお金をかけない。むしろ「お金がなかったことも功を奏した部分だと思う」と分析する。広告の代わりに注力したのが、お客さんに飲んでもらう場を作ることだった。その一つが「獺祭の会」というファンイベントだ。開催すると、最大で1000人規模のファンが集まるという。そういった大きなイベントの他に今年は国内外で飲食店や酒販店の店頭などさまざまなところでイベントを1000回開催する予定だ。

供給量は大幅に拡大したものの、将来作っていこうとしている市場に対する量とは差がある。生産量の拡大に向けて、2号蔵を拡張しているほか、3号蔵を2025年に着工した。3号蔵では「磨き 二割三分」をさらに進化させた「磨き その先へ」をはじめ、製造の技術レベルを高めたハイクオリティーな日本酒の製造を手掛ける予定だという。

1000億円の売上目標について桜井氏は時期を明示しなかった。「100億円のときも目標は立てていなかったが、1000億円も同じ。世界で認知されるブランドになることが大事で、1000億という売り上げはその手段だ。実際に目指すとなると、さまざまな課題がある。1000億というのはそういったことを皆で意識していくための指標でもある」としていた。

本社蔵の川向いにある獺祭ストア。隈研吾氏が設計した橋でつながっている
本社蔵の川向いにある獺祭ストア。隈研吾氏が設計した橋でつながっている

「やってみてできる失敗を繰り返すしかない」。売上高100億円という目標に向けて、飛躍的な成長を目指す「100億円宣言」企業に対して、桜井氏はこんなメッセージを贈る。

「私たちの酒蔵はお金がなくて、何かやらないとじり貧で、どうしようもない状況だった。試してみて確実に失敗するまで待っていたら会社の財布が底をつく。方向転換を繰り返して伸びていった。失敗を繰り返してもそれを許容する。それが大事だ」。地ビール事業の失敗では、わずか3カ月で撤退した。億単位の損失を出し、傷は大きかったものの、迅速な経営判断で致命傷を受けずに済んだ。決して順風満帆ではなく、さまざまな苦難を乗り越えて成長した企業だからこその重みを感じるアドバイスだ。

企業データ

企業名
株式会社獺祭
Webサイト
設立
1948年1月
資本金
1000万円
従業員数
328人
代表者
桜井一宏 氏
所在地
山口県岩国市周東町獺越2167-4
事業内容
獺祭の製造および販売