トヨタ自動車創業者

豊田喜一郎(トヨタ自動車) 第3回 逆境の中でつかんだもの

著者・歴史作家=加来耕三
イラスト=大田依良

だが、台所は火の車であった。急ぎに急いで世に出したG1トラックが、売れなかったからだ。無論、景気が低迷していたことが根底にはあったが、事態は深刻であった。

懸命に量産をはかる製造現場でも、材料不足や不良部品によって、部品各々にばらつきが生じてしまい、いざ組立工程に入ると、足りない部品、逆にあまる部品が続出した。そのため、一定の在庫部品が常に必要となっていたが、これをかかえるには倉庫も必要であり、第一その分、金利がかさんだ。在庫部品の管理にも、人手がさかれる。

1台の車を完成させて、ようやく商品となる自動車生産では、コスト上、能率面からもこれは黙視できない問題であった。

このおりの喜一郎という人物の精神力は、どれほど称賛しても称賛しすぎにはなるまい。次々と襲いかかってくる難問に対して、彼は決して逃げず、自ら率先して立ち向かった。

「ジャスト・イン・タイム」

このトヨタ生産方式の、柱の一つである考え方も、フォードのそれを参考にしたとはいえ、現実の厳しさの中から必然的に、喜一郎があみ出したものといえる。

必要なときに、必要なものを間に合わせる——工程の維持管理を徹底することを厳命した彼は、工場を見回りながら、余分なものが置いてあれば自分で片付け、その場で放り出したりしてみせた(トヨタ自動車工業『あゆみ』より)。

最大の問題である売れないことに関しても、昭和11年10月の時点で、月賦販売のための金融会社を設立している。

当初、“トヨタ”の販売は現金売り四割に対して、月賦が6割を占めていた。喜一郎は下取りの中古車も対象として、今日に受け継がれる月賦販売体制を考えていたことになる。また、今でいう広報活動にも積極的で月刊広報誌『流線型』や『トヨタニュース』を発行し、需要創出に懸命となっていた。

だが、現実は厳しい。自動車生産の伸びに比して、国内の販売需要は伸びず、日々、在庫が増えていった。

まごまごしていると、会社は潰れてしまう。その矢先に日中戦争が起こり、陸軍が大量に買い上げてくれたので、在庫を一掃することができた。
(豊田英二著『私の履歴書』)

“東洋のデトロイト”をめざした、主力工場=「挙母工場」の完成もあり、 “トヨタ”は、多量製造・販売を本格的させる。

昭和13年度の4672台から、昭和14年度には1万4018台になっている(トヨタ自動車工業『30年』)

この年の9月の決算では、売上高2550万円余に対して、税引前利益1222万円余を出し、設立以来はじめて年5分の配当実施に漕ぎつけた。

が、日中戦争の泥沼化に加え、昭和16年12月、太平洋戦争に日本は突入していく。

この開戦の年の1月28日、“トヨタ”の取締役会は喜一郎を取締役社長に昇格させた。事実上のトヨタ自動車工業の創業者であった彼は、ここで名実共に“トヨタ”の最高責任者となった。義弟の利三郎は取締役会長となり、三井物産の取締役・赤井久義が取締役副社長に選任された。

ほぼ同時期に、監査役として日本生命の取締役会長・佐々木駒之助、伊藤忠商事の取締役社長・伊藤忠兵衛が新たに選ばれている。

喜一郎はこの戦時下において、なんとか“トヨタ”を守り、育てようと懸命になるが、統制経済に入っていた日本は、その資源不足が日々、露になっていく。

“トヨタ”は昭和16年12月、2000台を生産したが、これをピークに、翌年に入ると、生産台数は日本の負け戦と比例して、急激な落ち込みをみせていった。

社長の喜一郎は、徐々に仕事への情熱を失っていく。無理もない。“トヨタ”の主力となったトラック製造は、政府及び軍の統制下におかれ、新車種の開発といったリスクを負うより、すでにある車種を改善するほうが間違いない、と軍部は判断。ならば、と喜一郎がエンジンの開発に意欲を燃やすと、当局は資材の節約を理由に、その新型エンジン搭載トラックの製造を許可しなかった。肝心なエンジンですら、設計変更が許されず、車の性能向上をはかれなくなった、とすれば、喜一郎の意欲が失われてもしかたがなかったろう。

日本は敗れ、昭和天皇の玉音放送がすべてを終了させた。

喜一郎は従業員とその家族のため、衣食住にわたる生き残りをはかるが、戦後の労働組合との対立の中、ついに社長を辞する。

車づくりの理想に生きてきた豊田喜一郎は7月の臨時株主総会で正式に社長を退き、豊田自動織機の社長・石田退三が兼任の形で第3代社長に就任した。

もともと家族主義でここまできた“トヨタ”は、争議解決の団体交渉をすませると、再び躍進への道を滑走する。

今一つ、皮肉にも喜一郎が退任して20日後に勃発した朝鮮戦争は、米軍のトラック特需注文を生み、“トヨタ”は戦後はじめての好況を迎えた。

昭和27年2月、石田社長は再建のメドがついたことを喜一郎に報告。社長をひきうけたおりに条件とした、業績回復後の喜一郎の社長復帰を促した。当初は拒絶していたものの、ついには折れた喜一郎ではあったが、運命はそれを許さず、3月27日、脳内出血で57歳の生涯を閉じてしまう。  だが、彼の遺志は着実に“トヨタ”の遺伝子となって伝えられ、今、“トヨタ”は日本最強の企業として輝いている。(了)

掲載日:2006年2月15日