中小企業のイノベーション
老舗温泉宿がリピート率70%超の人気宿に 人気を押し上げたのは経営美学の実践【保養とアートの宿 大黒屋(栃木県那須塩原市)】
2025年 1月 10日
「インバウンドが好調」と明るいイメージの日本の旅行業界。しかしリピーターを獲得しなくては先々の見通しが明るいとはいえない。そんな中、異彩を放つのがゲストの7割を日本人のリピーターが占めるという驚異の人気宿『保養とアートの宿 板室温泉大黒屋』。数百年の歴史ある温泉宿ではあるが、それだけが人々を「また来たい」と思わせているのではない。16代目当主の室井俊二氏が、特定の客層に“刺さる”経営術でファンを生み出している。
リピーターを惹きつけるアートの宿
山間の道を温泉街の表示に従って登ってゆくと、目的地の『保養とアートの宿 板室温泉大黒屋』の看板が見えてくる。車で入ってゆこうとすると、入り口に鏡があることに気が付いた。「気づきましたか! これが“気配”です、大黒屋の気配。そこからもう、アートは始まっている」。楽し気に話すのは、室井俊二氏。大黒屋の16代目当主だ。2022年より息子の康希氏が17代目を継ぎ、俊二氏は会長として一線からは退いているが、時折ゲストアクティビティのアートツアーを引率することも。同館名物の倉庫美術館に収蔵された「もの派」のアーティスト・菅木志雄氏の作品の見どころと解説を行う。アートに造詣が深くなくとも作品の良さに触れ、楽しむことができるウィットにとんだ語り口は参加者を魅了する。
栃木県那珂(なか)川のほとりにある板室温泉は、1000年前にはすでに発見されていたという記録がある。アルカリ性単純温泉で、高い効能があるとして古くから湯治に訪れる人があったという。江戸時代には会津街道の宿場町として栄えたが、今では清流に沿ってひっそりと数軒の温泉宿が残る程度。観光地化されておらず、知る人ぞ知る、といった趣が魅力だ。
その温泉宿のうち、1551年創業というとびぬけた古参の宿が、この『大黒屋』である。板室温泉にできた最初の湯治宿のひとつであり、当時から続いているのはここだけともいわれる。客室数は31室、露天風呂つきの大浴場「たいようの湯」と「桧(ひのき)の湯」があり、食事は部屋食で季節のものをあしらった和食がいただける。館内や庭にはアート作品が配され、サロンでは毎月、様々な作家の展覧会が開催されている。まさに“保養”と“アート”を楽しむための宿。だが、リピーターの多くがアート鑑賞を目当てに訪れているかというと、そうではないという。
経営美学の礎
「私は時代の進化に乗れなかったんだと思うのです」と俊二氏は言う。この言葉はバブル期を経験しても事業規模を拡大していないことを指すが、実は「従業員とゲストのバランスを考えて割り出した部屋数が31室」と、計算のうえでの運営であると明かす。「ちゃんと文化があって、自分の目が隅々まで届くから」。それこそが俊二氏の経営美学。「企業家として認められるには、自分の生き方を表現できなくては」と、規模を大きくすることだけが“成功”ではないという。
こうした考えに俊二氏を導いたのは、若いころの学びによる。大黒屋を切り盛りする両親を見て育ったが、特に経営学などを学ぶように言われたことはない。ただ、両親がいつも熱心にお経を唱え仏壇を拝んでいたことから、宗教に興味を持ち大学では仏教と哲学を学んだ。そのふたつは今も俊二氏の思想の根幹だ。
また、森田必勝氏との出会いも、多少なりとも影響している。森田氏は三島由紀夫とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを起こし、25歳の若さで切腹自殺した人物。同じ大学で言葉を交わす仲でもあった森田氏が、思想を実践に移したその姿は俊二氏に強烈な印象を残したという。そのことから、「ただ学ぶだけではなく、実践に移さなければいけない」という考えを持つようになった。
そこに、アートという要素が加わったのが俊二氏の「アートスタイル経営」なのである。
アート宿としての変貌
もともと美意識が高かった俊二氏。ちょうど宿の16代目を継いだ1985年ごろに京橋のアートギャラリーで目にした菅木志雄氏の作品に心惹かれ、購入。以来、菅氏の作品を追い求め、とうとう本格的に菅氏の活動を支えるようになる。館内で毎年個展を開催し、作品を一部買い取ることを12年間続けた。海外での個展の際には、日本語的ニュアンスの強い菅氏の作品に「禅に通じる」とのアイデアを加えたこともある。海外で菅氏の作品が認められ、次第に人気を博するようになると、俊二氏が買い求めた菅氏の作品も展覧会などで貸し出しを頼まれるようになった。俊二氏は国内有数の菅木志雄作品のコレクターとしても名をはせ、菅氏の作品のみを展示する「倉庫美術館」は大黒屋の“顔”のひとつとなった。
また、俊二氏は、学生時代から傾倒していた哲学者・西田幾多郎氏の「場所論的思考体験」のアイデアと、禅と菅氏の世界観を融合したインスタレーションを大黒屋の庭に造成してもらい、さらに力を入れてアート宿を作り上げていった。前述の“大黒屋の気配”もまた、その体験のひとつ。アート作品はそのときの状況や、どこからその作品を見るか、切り取り方しだいで見るものにさまざまな感想を引き起こす。そこに感じる“なにか”に心を動かされる。那珂川のほとりの、この場所にしかない、そんな唯一無二のアート作品の数々が、大黒屋に集結していた。
“成功”の定義とは
菅氏の作品は世界で認められたものの、当然支援には資金もかかっている。ちょうどバブル期はであったが、銀行から融資を受けるのには少し悶着があった。「アート宿」で貸した金を回収できるのか……? と銀行が懸念したのだ。そこは俊二氏の企業家としての腕の見せ所で、同じ経営者の目線を持つ銀行頭取と直接話をしたという。自らの美意識に沿った、アートスタイルの実践のために——禅や哲学、それに通じるアートを経営に取り入れる——俊二氏の熱い説得に、頭取は「よくわからん」と言いつつも、当時としては破格の金利で融資することを決めてくれた。
破天荒にも見える俊二氏の事業計画ではあるが、説得力を持ったのは“ブレない生き方”を示したからではないかと俊二氏は考える。事業を大きくすることではなく、別の方向に“成功”を見出す。自分なりの「成功の定義」を決めることが重要で、俊二氏の場合は宿の規模ではなく、ゲストの感性をゆすぶる宿がそれであったということだ。だが、俊二氏を最も悩ませたのもまた、まさにその“感性の違い”であった。
あるとき、菅氏の作品に対し、批判的なゲストがいた。「こんなよくわからないものの、どこがアートだよ!」。それに対し、ホテルスタッフは「社長の趣味なもので……」とあきらめたような態度で応じる。菅氏の作品には強い思想と哲学が表現されているが、説明がなければなかなかその真意を理解するのが難しい。逆に、その真意を聞けば「ああ!」と膝を打つような明快かつ爽快な作品でもある(アートツアーではそこを紐解いて見せてくれる)のだが、ただ見るだけでは「よくわからない」ままのゲストがいることも事実。とうとうそのゲストは「経営者と話がしたい」と俊二氏を呼びつける。俊二氏は淡々と「趣味のちがい」と諭したといい「合わなければ、それはしかたのないこと」と伝えた。ゲストは「なるほど、そうか」と引き下がったものの、再び宿を予約することはなかった。
「別に、ゲストの好みを切り捨てたわけではありません」と俊二氏。ただ、これまでにもゲストやスタッフ、そして出入りの業者などあちこちから作品に対する苦言がなされてきたのだ。大工さんなどは、「こんなの、俺がちょちょっと木で作ってやるよ」と冗談めかして言うほど。当時まだ無名であった菅氏の感性を理解しようとするものなどおらず、スタッフさえも背を向けている。この出来事は「なるほど、これではなにも伝わらない」と成功への道の遠さを痛感させたとともに、いよいよ明確に「保養とアートの宿」へと突き進む一歩となった。
感性の共感が人を呼ぶ
すでに“場”はできている。俊二氏はスタッフ教育を徹底するとともに、美術大学などからもスタッフを採用することにした。アート宿だからこそ働きたい、という人が集まり、彼らはゲストたちに作品の見どころや奥深さを嬉々として案内してくれるようになった。アートに特段興味がないゲストでも、たとえばほかの場所より少しだけ低く刈り取られた草の向こうに那珂川のせせらぎが見えそうなその“気配”を感じると、「ここはわざと低く刈り取ってあるのね!」と“仕掛け”を見つけて喜ぶ。これこそが感性の共感だ。細部にまでこだわる俊二氏の美意識そのものを楽しんでくれるゲストが、次の予約を入れてくれるのだ。
俊二氏の感性とゲストの感性が引き合い、「アートの宿」ではおのずと客層が絞られるようになってくる。前述のゲストのように、「よくわからない」人は再訪することはない。だが、ここに居心地のよさを感じ、楽しさを見出してくれる人はリピーターとなる。思想や哲学を内包したアート作品の数々を展示することは、結果的にゲストを“選ぶ”ことにもなっているが、俊二氏は「アートがあるから人が来るのではない」という。温泉があって、自然を楽しめるこの“場”にアートという文化があることで、人々は心が豊かになり、深い満足感を得ることができる。「経営とは、ヒト、モノ、カネ、そして情報を駆使してこういう“場”を作り上げること。その表現方法が、私の場合はアートだっただけ」。この独特な経営手法は2005年に公益社団法人企業メセナ協議会によって「アートスタイル経営」と名付けられ、全国に知られるようになっていった。
パンデミック中に「キツいときだからこそ(事業を)譲らねば」と引退を決めたが、3人の子どもたちはそれぞれアート宿を継ぐ準備ができていた。自身の両親同様、特に子どもたちに経営者教育をしてきたわけではないが、3人とも本格的にアートを学んでいたのだ。ブレない思想とその実践を続ける父の姿が、後継者たちの興味と心をつかんだことにほかならない。長男の康希氏が後継者に決まり、「息子には息子の表現方法があるでしょう。私はそれを見守るだけ」と俊二氏はきっぱりと経営から身を引いたという。感性による経営術。康希氏による新たなステージを迎えたアートスタイル経営は、今もなお新たなファンを増やし続けている。
企業データ
- 企業名
- 保養とアートの宿 大黒屋
- Webサイト
- 設立
- 1551年
- 資本金
- 2,000万円
- 従業員数
- 40名
- 代表者
- 室井康希 氏
- 所在地
- 栃木県那須塩原市板室856番地