あの人気商品はこうして開発された「食品編」

「ホームランバー」“楽しさの追求”を一番に考えた

「あの人気商品はこうして開発された」 「ホームランバー」—“楽しさの追求”を一番に考えた 前身の商品の売り上げが鈍化し、再生の方策が検討されるなか、形状の見直しや増量など数多くの意見が出た。しかし、後にヒット商品の生みの親となる社員は猛烈に反対。彼はあくまでもコンセプトを重視し、ラッキー感を演出する商品設計を編み出した。

協同乳業にとって起死回生の“逆転満塁ホームラン”となったのが、アイスクリーム「ホームランバー」だった。プロ野球チーム・東京読売巨人軍の花形選手だった長嶋茂雄氏をイメージキャラクターに起用したことに加え、当たりくじ付きのドキドキ感が消費者の心を躍らせ、一気に人気に火がついた。「それまで在庫過多だったほかの商品も相乗効果で売り切れた」(中村博之デザート統括室フローズングループ主管)というエピソードが同社に残っているほどだ。ホームランバーは売上高で乳製品メーカー下位に甘んじていた同社を、発売した1960年にトップにまで押し上げた立役者となった。

前身のアイスクリームバー

1955年に発売した「アイスクリームバー」

ホームランバーは、1955年6月に発売した「アイスクリームバー」が前身となる。当時のアイスは、1個20-30円するカップ型や皿に取り分ける大容量のクォートサイズ程度の種類しかなく、サラリーマンの月給が5-6万円の時代では高級品の部類に属していた。「片手で手軽に食べられ、しかも低価格のアイスを求める消費者ニーズは潜在的にあったはず」(中村博之フローズングループ主管)と需要を先読みし、1955年に日本で初めてデンマーク製の自動充てん・成型機アイスクリーム量産マシンを導入した。

国内初のアイスクリームバーマシーン

しかし、当初アイスクリームの成分を角型の金型に入れて固めるモールド設備は、四隅の洗浄が難しく衛生面で問題があると指摘された。あきらめられない協同乳業は、衛生研究所などに足しげく通い「洗浄方法や使用法などを粘り強く説明した」(同)。食い下がり交渉した結果、使用許可を取り付け生産を開始。1本10円の大衆向けアイスクリームバーが発売された。手軽感と手ごろ感から庶民派アイスとして人気を呼んだ。製造拠点だった東京・日本橋の工場がガラス張りだったこともあり、生産の様子を見に来る見学者で人だかりができた。

現在の「ホームランバー(バニラ味)」は、アイスクリームの種類に分類され濃厚な味わいで、少なくとも半年に一回は消費者の嗜好(しこう)調査を通じて、食感や風味を変えている。これに対して、前身となるアイスクリームバーは「どちらかというと、アイスキャンデーのような固い食感のミルク味だった」(同)という。

ホームランバー誕生

1955年の発売直後は勢いよく売れたアイスクリームバーだったが、1-2年すると、他社から類似商品が発売されるようになり売り上げは鈍化していった。「販路をもった会社がシェアを取っていく。再生するにはどうしたらいいか社内で検討がはじまった」(中村博之フローズングループ主管)。会議では「四角い形状が食べにくい」、「1本60ccの容量を10cc増量したらどうか」など、数多くの意見が出た。

ところが、当時の営業課長でホームランバーの生みの親ともいわれる森三郎氏が猛烈に反対した。「森氏は、アイスクリームバーは1本10円で、子どもから大人まで楽しめる庶民の商品。増量という安易な方策ではなく、商品コンセプトの“楽しさの追求”を一番に考えるべきだと感じていたのだろう」(同)。

1960年当時、子どもから大人まで楽しめる娯楽は、プロレスとプロ野球。森氏の頭の中で「ホームラン」と「アイスクリーム」がつながった。「ある乳製品メーカーでは広告のためスティックに焼き印を入れている」という情報を入手した森氏は、スティックにホームランなどの焼き印を入れ、当たりくじ付きにしてラッキー感を演出する商品設計を思いついた。ホームランバー誕生の瞬間だった。

発売開始当時のホームランバー

イメージキャラクターは、東京読売巨人軍で人気を博していた長嶋茂雄氏にアプローチ。長嶋氏と同じく子どもにファンが多く、低価格で子どもにも喜んでもらえる商品であることを球団側に伝え、交渉がまとまった。パッケージには野球帽をかぶった少年「ホームラン坊や」を採用。1960年1月に発売した。同年3月にはスティックに「満塁ホームラン」、「ホームラン」、「ヒット」などの焼き印を入れた当たりくじ付きキャンペーンをアイスクリーム業界で初めて実施。満塁ホームランが出ると、野球盤などの景品が当たり、ホームランはホームランバーが1本無料に、ヒットには1塁打・2塁打・3塁打があり4塁打集めると、ホームランバーが1本無料になる内容だった。

また、78年に映画「未知との遭遇」が日本で公開され、未確認飛行物体(UFO)ブームが巻き起こると、UFOを模した玩具を景品にしたほか、長嶋茂雄氏が東京読売巨人軍の監督を退任した80年には、ボールの球速を測るスピードガンが当たるキャンペーンを実施するなど「時代に合ったキャンペーンを行い、話題性を訴求してきた。消費者に飽きられないような取り組みを継続してきたことが発売50周年を迎えられた要因」(業務管理部の高橋紗奈恵氏)と分析する。

業務管理部の高橋紗奈恵さん

発売当時の製造工場は24時間フル稼働。それでも商品供給が間に合わず、得意先のトラックで工場の前に出荷待ちの行列ができたほどという。アイスクリームバーの不振により、それ以外の商品も在庫を多くか抱えていた協同乳業だったが、ホームランバーの人気でブランド力が高まり、滞留していた商品の売り上げも伸びていった。

コンセプトを再構築

一世を風靡(ふうび)したホームランバーだったが、駄菓子屋が減少し食品スーパー(SM)が登場すると、売り上げは下がっていった。SMでは小分けの商品でなく家族向けのパック商品が好まれることや、チルドケースだと銀紙包装のホームランバーは形が崩れたり破れたりする恐れがあり、取扱店が思うように開拓できなかったためだ。77年には1本30円に、89年には50円に値上げするも売り上げへの貢献度は低かった。

マルチパック「ホームランバー(バニラ&チョコ)10本入り」

事態の打開を図るべく、82年には量販店向けにマルチパック「ホームランバー(バニラ&チョコ)10本入り」を発売。期間限定でキャンペーンを実施したり、「リアルなホームラン坊や」や、ホームラン坊やがプリントされていない「レトロパッケージ」などにデザインを変更したり、さまざまな試みが行われた。

ただ、この変化があだとなった。ブランドの軸に「ブレが出てきた」(高橋紗奈恵氏)。ホームランバーの再生をするため、05年にコンセプトを再確認する作業に着手した。

ホームランバーの商品イメージは「ラッキー&サプライズ」。消費者を虜(とりこ)にした最大の要因は、時世に合った商品を景品とする当たりくじキャンペーンだ。商品ブランドを再構築するために、それまで期間限定だったキャンペーンをマルチパックで初めて、年間を通じて行うようになった。また、バラバラだったホームラン坊やのイラストを「初代ホームラン坊やのように、丸顔に大きな口でホームランバーをおいしそうに食べる愛くるしい顔」(同)に統一させた。

少年野球大会に登場したホームラン坊やの着ぐるみ

協同乳業は1990年に銀紙包装のホームランバーの製造販売を終了し、名糖産業からの仕入れ販売に切り替えている。ホームランバーのコンセプトを共通化させるため、両社は相互協力の下、06年にホームラン坊やを現在の姿に一本化した。消費者のワクワク感やドキドキ感を刺激するような商品開発を互いに行っていくように密な連携をとっている。

消費者の認知度を上げるための施策も忘れていない。ホームランバーの購買層が高めのため、売り上げを伸ばすには若年層の取り込みが必須となる。若者にブランドが染み込むように現在、ホームラン坊やの着ぐるみがイベントに登場し、無料でホームランバーを配る取り組みを行っている。また、地域の少年野球大会でも同様の活動を実施している。

これらの「地道ながらの活動」(高橋紗奈恵氏)を行いブランド力と認知度を高め、“次の50周年”を目指し協同乳業はチャレンジを続ける。

企業データ

企業名
協同乳業株式会社
Webサイト
代表者
代表取締役社長:山崎直昭
所在地
東京都中央区日本橋小網町17-2/本部:東京都板橋区幸町2-4

掲載日:2012年8月29日