明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「岩波茂雄」出版文化の大衆化の功労者(第3回)

大正2年8月、神田神保町に岩波書店は産声を上げた。しかし、岩波茂雄に は商売気はまるでなかった。ともかく糊塗できれば——と、哲学青年は考えた 。古本屋とはいっても資金には限りがある。開店当時、商品を並べる棚は隙間 だらけだ。棚を観て、岩波は腕組みをして考えた。いかにも流行らぬ店という 風情だ。まあ、自分の蔵書を並べ、友人から借りた書籍を並べて、どうにか体 裁を整えた。しかし、本当に売れてしまっては困るのである。目立たぬように なるべく上の棚に並べたのだが、客がそれを手にするたびに冷や汗をかかされ たものだった。まあ、食えればいい——というのが、商売を始めた理由なのだ から、当時の岩波には「文化の振興」とか「日本文化への貢献」などという大 それた考えはなかった。しかし、常人と異なるのは、古本の正価販売を始めた ことだ。

「哲学叢書」と「科学叢書」

この正価販売はなかなか客に理解してもらえなかった。当然売り上げも伸びない。当時は店先でも交渉で値段を決めるのが一般的だったからだ。正価販売を決めたのは、いちいち交渉するのは面倒だと考えた節もある。ともかく苦しいスタートだったが、いかにも長野県出身者らしく岩波は、生来誠実な男である。それに書籍についての知識もあった。そのサービス精神が徐々に顧客の心をつかみ、着実に顧客も増え、店の運営が順調となるのは、開店一年後のことだった。

売り上げも一日10円から20円が限度だった。商売が軌道に乗り始めると、人間欲が出るものだ。古本を眺めながら、古本だけでなく、新刊本もと考えるようになった。岩波の人脈は広い。その人脈は夏目漱石にまで広がっていたのである。岩波は本郷の漱石の自宅を訪ね、懇請した。本気かね——と、漱石は首を傾げながらも「こころ」の出版を承諾した。これが岩波書店の信用を上げた。古本から新刊本に比重を移すようになるのは「哲学叢書」を出版するようになってからだ。

叢書の出版は大正4年のことだ。日本の思想界の混乱は、哲学の貧困にあり、哲学の一般的な普及は急務である——というのが出版の目的だった。東大で哲学を学んだ岩波茂雄には、十分心当たりのある分野だ。岩波茂雄は出版人として目覚めたのである。「哲学叢書」の出版には、一高以来の友人である阿部次郎、上野直昭、安部能成らが参加した。いずれも新進気鋭の人たちだ。全12刊が刊行を終えるのは二年後の大正6年のことだ。時流に乗ったというべきであろう。廉価な定価販売が、若い知識人たちの心をつかんだ。目論見が当たり、「哲学叢書」は爆発的な売れ行きを示して、その後何年にもわたり版を重ねて、岩波書店のドル箱となったのはご承知の通りだ。

大正時代は教育の普及と学校制度が整備され、知識階級が増えていた。知識階級が増えれば出版物に対する需要が増える。問題は何を出版するかだ。それを岩波茂雄は哲学と観たのだ。往事の知識青年は哲学に飢えていた。それを岩波はいち早く見抜いた。彼はそれを具体化できる方法を持っていた。カネはなかったが、一高以来の友人である。出版にあたっては、いまで言う「マーケティング」も忘れなかった。廉価定価販売だ。これが一部の知識階級だけでなく 読書人の人口を広げたのである。

100頁ごと星一つが20銭

岩波書店の基盤を作ったのは、漱石の「こころ」だった。岩波茂雄は漱石の恩義に応えるため、「漱石全集」を刊行する。これがまた大当たりをした。「哲学叢書」も版を重ねている。書店経営の基盤も固まった。こうして出版するのが「科学叢書」だった。出版に当たっては漱石の門下生で科学者でもある寺田寅彦も、相談に乗った。「哲学叢書」と目的は同じく「科学知識」の普及が出版の企図だった。その後、各種講座、全書、新書、六法全書、教科書など各種の出版物を手がけ、創業10年で岩波書店は総合出版社の地位を獲得するのであった。講座本や全書などはいまでこそ珍しくもないが、当時の出版事情からいえば、これは大変な冒険であったし、斬新な企画でもあった。

大正12年9月1日。関東大震災が帝都を襲う。神田神保町もやられた。岩波書店も大損害を受けた。倉庫、印刷工場、在庫本も焼失し、損害額は80万円に上った。そこに昭和恐慌が襲う。状況は平成不況よりも悪かった。が、岩波茂雄はへこたれなかった。昭和恐慌の最中に積極路線に転じるのである。すなわち、昭和恐慌対策として彼が考えたのはいわゆる「文庫本」の出版だった。当時の書籍は、まだ一般の人たちには、高価なものであった。もっと廉価で一般の人でも手にできるものを......。アイデアとして浮かんだのがドイツの「 レクラム文庫」やイギリスの「キャッセル文庫」だ。

当世学生のスタイルは岩波文庫を懐に

こうして「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」という名文で始まる「刊行の辞」を末尾に載せた「岩波文庫」の刊行が始まるのは昭和2年7月のことだ。古今の名著から哲学、社会科学、自然科学、文芸、芸術までを網羅する「岩波文庫」の登場だ。人びとを驚かせたのは、百科全書派的な幅の広さだけではなかった。100頁星一つが20銭。実にわかりやすい値段の設定の仕方をしたことだ。これなら貧乏学生も工員だって買える。薄利だが、多売で利益を得ようというわけだ。平成のユニクロなど岩波のアイデアにかかれれば子供だましみたいなものだ。昭和恐慌の最中だ。文庫出版は過大投資ではないか——と、社内には心配する声も上がった。これが大ヒット。社会現象とでもいうべき売れ行きを示したのだった。

懐に「岩波文庫」を忍ばせて歩くのが往事の学生のスタイルだ。言ってみれば、社会現象である。反響は大きく、岩波書店に感謝状まで寄せられた。有名な学者は「私の教養の一切を岩波文庫に託する」という書簡を寄せている。このときほど、嬉しかったことはなかった——と岩波茂雄は後に述懐している。往事の岩波文庫を、苦境に陥っている岩波書店が再販に踏み切ったのはごく最近のことだ。それが結構な評判を呼んでいるという。没してなお岩波茂雄は救世主というわけだ。それほど岩波文庫は時間を超えて広く深く国民の間に普及しているということだ。文庫本に収録されたもので、私が学生時代に読んだものには「こころ」「実践理性批判」「国富論」「桜の園」などがある。それらのいくつが再版されるというのだから嬉しい限りだ。(つづく)