明治・大正・昭和の ベンチャーたち

「岩崎弥太郎」維新の政商ベンチャー(第2回)

三井三菱が全面海戦

労せずして土佐藩の財産を手中におさめることができたのは、言うまでもなく後藤象二郎や林有造らの画策あってのことだった。政商と呼ばれる所以でもある。土佐藩と同様に廃藩置県の際に、各藩とも所有する船舶など財産を民間に払い下げている。いまでいう民活というわけだ。関西地方を中心に海運業が勃興するのは、こうした事情からで、おのずと競争は厳しいものとなる。坂本龍馬の海援隊の伝統を引き継ぐ海運会社とはいえ、この競争は実に厳しいものだった。

競争手段はいまも昔も変わらず、運賃のダンピングが効果的だ。まあ、独禁法もなかった時代だ。最後には、無料で回漕する海運会社まで登場する始末だ。そんなことをやっていれば、経営が悪化するのは当然だ。三菱商会とても事情は同じで、そこに強敵として現れたのが、半官半民の「郵便汽船会社」だった。この海運会社は政府の手厚い保護のもとにおかれていた。半官半民とはいえ内実は、三井の支配下におかれた船会社である。三井と三菱が四つに組んだ海運をめぐる戦争は、こうして始まるのだった。

最新鋭の蒸気船を含め所有船舶数は18隻。しかも政府の手厚い保護を受けている。対する三菱商会といえば、赤字続きの経営で、手持ちの船舶は旧式船舶という具合で、劣勢は明らかだった。しかし、郵便汽船会社にも弱点はあった。社員の多くは官員さまで、その官員さまが横暴だったこと。社員は羽織袴の帯刀姿で客に接し、サービス精神などひとかけらもない。威張り散らされるのでは、客は嫌う。

同じ料金なら三菱を選ぶのも当然だ。弥太郎は三菱商会を岩崎個人の会社に改組するあたり、一大組織改革を行っている。要するに、会社から「侍気質」を一掃する意識改革を進めたのであった。それが嫌なら三菱を去れ!と社員に迫ったのである。何やら国鉄改革の明治版のようでもある。こうして社員にたたき込んだのが、いま風にわかりやすく言えば「クロネコヤマト」の精神だ。弥太郎はコンプライアンス(遵法精神)には欠けていたが、経営の要諦をサービスにあると心得ていた。士魂商才の男にしては炯眼というべきであろう。

千載一遇のチャンス

無一文から成り上がった弥太郎の三菱基金の作り方はアコギだった。維新の動乱が続くなかで土佐藩の重役後藤象二郎らのバックアップのもと、藩財産を譲り受け、民営企業に衣替えした三菱商会の前に思わぬ障害物が立ちはだかる。政府の庇護のもとにある三井財閥だった。往時の人びとは、この闘いを「三井三菱海戦」と呼んだものだ。勝算なき闘いのように見えたが、弥太郎は政商の政商たる力を、ここで見事に発揮してみせる。けれども経営の実態は最悪だった。激しいダンピング競争で大赤字を抱え、経営は破綻状態に追い込まれ、あと何ヶ月持つか、さしもの弥太郎も追いつめられていた。

そこに勃発するのが「征台の役」だった。明治7年、明治政府は台湾の政情不安と邦人保護を理由に軍隊を派遣し、海外で展開するはじめての軍事行動を起こす。大義名分はPKOとされた。薩摩勢が熱心に「征台」を主張したのに対し、長州勢は内政不安を理由にあくまでも慎重論の立場を取った。三井が長州勢についたのをみて、弥太郎は非長州薩摩勢についた。おりから米国など列強は日本の軍事行動を非難はしたが、局外中立の立場を宣言したため、外国船にたよる兵員や武器の輸送に支障が生じていた。長州側に立つ三井は動けずにいた。弥太郎はそこに目をつけたのだった。

正しく千載一遇のチャンスだ。機を見て敏なるは経営者の要諦でもある。弥太郎はすかさず行動に移った。いまでいう後方支援を受け持つべく、弥太郎は薩摩方政府高官らと接触し、軍事輸送の利権を手中におさめただけでなく、政府が「征台」のため外国から購入した船舶13隻を借り受け、兵員や軍需物資の輸送に乗り出すのだった。長州勢に殉じた郵便汽船会社は身動きができず、軍事輸送で巨利を得た三菱商会を横目で見ているだけだった。ここに「三井三菱海戦」は、三菱優位のうちに終結するのであった。このころ、弥太郎の案内で新橋など遊興の巷で遊ぶ大久保利通や大隈重信など政府高官の姿が目撃されている。弥太郎は軍事輸送で巨利を得ただけでなく、政府中枢に食い込み、その後の三菱財閥を築き上げる上で、彼は多くのものを手中におさめたのだった。

政府高官を遊興の巷に誘い、豪遊を続ける弥太郎ではあったが、だからといって政府高官に卑屈な態度を取っていたわけではない。傲慢不遜ぶりもはなはだしく、往時の最高権力者であった大久保は、弥太郎を持て余したと側近に漏らしている。このあたりが三井の番頭三野村とおおいに異なるところで、商人の卑屈さはなく、弥太郎は権力とも自分は対等であり、国を思う気持ちには少しも変わりないという気概がある。その意味で弥太郎もまた維新の志士であり、大久保にしても大隈にしても、かつての同志という意識だ。彼らは官途に道を開き、弥太郎はビジネスの世界で道を開く。それぞれの道で、この東洋の遅れた島国日本を富国強兵してヨーロッパ列強と渡り合える「一等国」を建設する夢を膨らますのだった。商売の道に入ったが、弥太郎はやはり志士の気分だったのである。(つづく)