東京や大阪の主要百貨店や全国各地の遊園地に同社の遊園施設が設置され、事業は順調に拡大。次に山田氏が目指したのが業界の社会的認知度を高めることだった。遊園施設に関係するメーカーや運営企業に声をかけ、1966年に全日本遊園施設事業組合を設立し、初代理事長に就任した。
その前年の1965年にアジア初となる大阪万博の開催が決まり、日本万国博覧会協会から計画の協力を求められた。過去の万博では会場内に遊園施設を整備するのが定番となっており、大阪万博でも当初から大型レジャーゾーン、エキスポランドが計画されていた。計画が進むにつれ民間による営業参加方式へと方向転換され、博覧会協会は大企業へ参画を要請していたが、「博覧会に必要なインフラ(交通機関)やパビリオンの協力などを行っており、難しい」と受け入れられず、博覧会協会会長で経団連会長などをつとめた石坂泰三氏は、事業組合に民間協力を要請。しかし、施設の建設などを参加企業が負担するという営業参加だったため、やはり参加を拒む組合員が続出した。これに対して山田氏は「業界の認知度を上げる絶好の機会だ」として組合員を粘り強く説得し、最終的に同社を含め組合45社中8社による営業参加にこぎつけた。
社運と業界の将来をかけたともいえるエキスポランドには、ジェットコースター「ダイダラザウルス」をはじめ数多くの施設が整備された。このうち同社は、園内を周回するミニレールや回転ブランコ「宇宙線シャワー」などを担当した。そして1970年3月に万博が開幕すると、エキスポランドはアメリカ館やソ連館、太陽の塔と並んで人気の的となり、万博全入場者(約6400万人)の4割にあたる2600万人余が入園した。
期間中には、この時代ならではの苦労も。当時は日米安全保障条約の改定をめぐる反対運動(70年安保闘争)が展開され、全国各地の大学では学園闘争が繰り広げられていた。そんななかエキスポランドでも、アルバイトの中に学生運動のメンバーが多数潜入。安保反対やバイトの待遇改善、万博反対といった過激な発言を繰り返し、場合によってはエキスポランドの運営を止めかねないという一触即発の事態に至った。これに対し、山田氏は学生たちの言い分に真摯に耳を傾けるとともに、家族連れなど来場者の喜びと安全を訴えるなどして事なきを得たという。
こうしてエキスポランドは、万博の成功に大いに貢献するとともに、遊園施設業界の認知度を一気に高めた。また、当初は万博終了後に撤去される予定だったエキスポランドには各方面から存続を望む声が上がった。これを受けてエキスポランドは施設の新設・改良を加えて1972年に再開。山田氏は石坂氏の要請を受けて運営会社の社長に就任した。山田氏の次男、山田勇作現社長も小学生時代には父親に連れられてエキスポランドでよく遊んだという。