同社は1922(大正11)年 能村テント商会として能村金茂が創業した。ただ、戦時下の企業整備法により廃業を強いられた。そして戦後間もない1946(昭和21)年に金茂の息子の能村龍太郎が大阪市大正区三軒家に太陽工業株式会社を創立し、再スタートを切ったのが実質的な同社の創業となる。ミシン一台、はさみ一丁で始めた事業は、当初リュックサックづくりが中心だった。戦後の物のない時代、丈夫なリュックサックは買い出し用としてつくればつくるほど売れたという。次いで取り組んだのが、当時日本に駐留していた米軍から依頼されたハッチカバー製造だった。丁寧な仕事ぶりで米軍から信頼を得た同社は、その後も軍用テントやカーテンの補修などを次々と仕事を獲得していった。そして朝鮮戦争が勃発し、同社への補修依頼は劇的に拡大した。三軒家の借家から始まった同社は同じ大正区に工場用地を取得して工場を建設、需要急増に対応する体制をいち早く整えた。戦後の混乱期に同社と同じようにミシンとはさみだけで創業した企業は多数いたが、どんなに困難でも納期を確実に守り品質を維持した仕事ぶりで信頼を得、さらにここぞという時に、大胆な投資に踏み出す先見性を持つ経営者は稀であった。同社の事業規模は朝鮮特需前と比べて15倍と大きく成長した。
世の中が「もはや戦後ではない」と言われる時代となり、高度経済成長期に入る中で、同社の事業も、軍需から民需へと転換がはかられた。米軍から大量に持ち込まれた軍用テントは、朝鮮戦争終結で無用となったが、同社はそれをダム工事の現場宿舎用など、さまざまなものに転用させた。舶用ハッチバックも船舶需要の拡大によってアイテムを拡大、さらにダイハツ工業が売り出したオート三輪車「ミゼット」の運転台を覆う幌を受注するなど、着実に事業を拡げていった。自動車業界からの受注は、同社の事業の大きな柱となっていった。創業当時「日本一のテント屋になる」と掲げた同社の目標はこのころ「世界一のテント屋になる」と修正することになる。