1.人的資本経営とは? 従来の経営との違い
人的資本経営とは、人材を「資源」ではなく、将来価値を生み出す「資本」として捉え、教育・経験・スキルへの投資を通じて企業価値の向上につなげる経営のことを指します。その背景には、少子高齢化による労働人口の減少、働き方や価値観の多様化、ESG(環境・社会・ガバナンス)経営の普及、さらには人的資本といった非財務情報への注目の高まりがあります。また、投資家の間でも、企業評価の基準が変化し、人材に関する情報の数値化・可視化を求める動きが広がっています。
従来の「人的資源経営」では、採用、勤怠管理、評価など、主に管理と最適な配置が中心でした。人材を限りある「資源」と捉え、どれだけ効率的に運用するかが重視されていたものです。一方で「人的資本経営」では、人材を将来の収益を生む「資本」と見なし、育成への投資を積極的に行う点が大きく異なります。言い換えると、企業の人材に対する姿勢が「管理から投資へ」、そして「効率から価値創造へ」と大きくシフトしているのが特徴です。
【人的資源経営と人的資本経営の違い】
(※)重要業績評価指標。目標を達成するための過程が適切に実行されているか、その達成度合いを計測し、結果を評価するための指標。
この考え方が広まるきっかけとなったのが、経済産業省が2020年に公表した「人材版伊藤レポート」です。企業の持続的な成長には「人材戦略と経営戦略の連動」が不可欠であると示され、多くの経営者の注目を集めました。
人的資本経営に取り組むうえで特に重要なのが、次の3つのポイントです。
(1)経営戦略と人材戦略の連動
企業の経営戦略を実現するために、どのような人材を、どのように確保・育成していくかを同時に考える必要があります。例えば、「地域密着の新サービスを拡大する」という戦略を掲げるのであれば、その分野に強い人材を採用したり、既存社員を育成する体制を整えたりすることが求められます。
(2)現状と目指すべき姿とのギャップの定量把握
将来必要となるスキルや人員と、現状とのギャップを数値で把握し、その差を埋めるための育成計画や配置を検討します。例えば、「5年後にデジタル営業を強化する」という方針がある場合、必要なITスキルと社員の現在の習熟度を洗い出し、どれだけ不足しているかを明確にします。
(3)企業文化への定着
策定した人材戦略を「計画」で終わらせず、組織文化や社員の日々の行動に根付かせることが重要です。例えば、経営者が理念やビジョンを語る場を定期的に設けることで、社員の意識や行動に反映されやすくなり、戦略の実行力も高まります。
これら3つのポイントを意識するだけでも、中小企業は人的資本経営の方向性をより明確に描けるようになります。人的資本経営は決して大企業だけの取り組みではありません。むしろ、一人ひとりの影響が大きい中小企業こそ、小さな投資や工夫が企業の競争力に直結しやすいと言えます。
2.エンゲージメントとは何か? 意味・重要性と人的資本経営との関係
人的資本経営の実効性を高めるうえで欠かせない鍵が「エンゲージメント」です。エンゲージメントとは、社員が会社に誇りを持ち、自発的に貢献したいと感じる心理状態を指します。単なる「満足度」ではなく、実際の行動につながる点が最大の特徴です。
似た概念として「モチベーション(やる気)」や「ロイヤリティ(忠誠心)」があります。モチベーションは報酬や目標によって一時的に高まることがあるものの、持続性に欠けるケースが少なくありません。一方、ロイヤリティは会社への愛着を示すものですが、それだけで積極的な行動につながるとは限りません。これに対し、エンゲージメントは企業の方向性や理念に共感することを原動力とし、自発的な行動につながる点が大きな特徴です。企業が人的資本経営を進めるうえで、エンゲージメントの向上が欠かせないと言われるのは、このような理由によります。
【モチベーション、ロイヤリティ、エンゲージメントの比較】
エンゲージメントが高い組織では、社員が自発的に工夫や改善を行うようになり、その結果、生産性や顧客満足度が向上します。さらに、離職率が下がるため組織の安定性も高まります。中小企業にとっては、採用難の中で社員が辞めないことが事業の継続に直結するため、エンゲージメントの向上は戦略上欠かせない取り組みです。反対に、エンゲージメントが低い組織では、離職コストの増加やノウハウの流出、顧客対応の質の低下などのリスクが高まります。
大企業のような複雑な制度がなくても、経営者と社員の距離が近い中小企業では、「経営者が理念や思いを直接伝える」こと自体がエンゲージメント向上に大きく寄与します。たとえば、週1回の短い全体ミーティングで、「今週、私たちの仕事が地域のお客様にどのように役に立ったか」を共有すると、社員は自分の役割に対する誇りを感じやすくなります。
また、四半期に一回程度、3分ほどで回答できる簡易的なエンゲージメント・サーベイ(調査)を実施するのもよいでしょう。「やりがい」「成長機会」「上司の支援」といった基本項目を5段階でたずねるような、シンプルな調査なら始めやすいはずです。
大切なのは、経営者自身が調査結果を受け止め、具体的な改善につなげることです。これにより、単なる満足度調査ではなく、経営者と社員の信頼や共感を深め、自発的な貢献意欲を促す「エンゲージメント施策」として機能します。
さらに、定期的なキャリア面談の実施、スキルに合わせた配置の工夫、社内SNSでの成果の称賛といった、日常的なコミュニケーションを積み重ねることも効果を高めます。これらの取り組みが、人材への投資を実際の行動や成果へと結びつけ、中長期的な企業価値の向上につながっていきます。
3.なぜ今、人的資本経営が必要なのか? 中小企業への示唆
人的資本経営が注目される背景には、冒頭で述べたように、いくつかの大きな社会的要因があります。
第一に、少子高齢化による労働人口の減少です。今後はますます人材の確保が難しくなるため、現在いる人材を育て、生かすことが最優先の課題になります。
第二に、働き方や価値観の多様化です。若手世代は、年功序列や安定よりも、自身の成長ややりがいを重視する傾向があります。企業は、社員が「ここで働く意味」を実感できる環境を整えなければ、人材をつなぎとめることはできません。
第三に、ESG経営や人的資本といった非財務情報への関心の高まりがあります。投資家や取引先は財務データだけでなく、人材育成やダイバーシティの取り組みなど、人的資本に関する情報を重視するようになっています。
では、企業は具体的に何をすべきでしょうか。一般的には、次のようなステップを踏むことが推奨されます。
【人的資本経営を始めるための3つのステップ】
【具体的な施策例】
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デジタルスキル不足 → 外部講師による60分研修を月1回実施し、受講率をKPI化して管理する
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学び直しの停滞 → 自主学習(eラーニング)の取り組みを評価に反映し、受講完了率をKPI化して管理する
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若手人材の定着 → 経営者と若手社員の月1回の面談を制度化し、面談実施率100%を目標にする
これらは、中小企業でも取り組みやすい具体的な実践例です。「経営課題と人材施策を直接結びつける」ことこそが、人的資本経営を始めるうえでの第一歩になります。
人的資本経営は、単なる「経営の新しい流行語」ではありません。人を資源として管理するのではなく、将来価値を生む「資本」として捉え、その力をエンゲージメントによって行動につなげていく取り組みです。社員が「ここで働くことに誇りを持ち、自分の力を発揮したい」と感じられる状態をつくることが、育成への投資を成果へと結び付ける原動力になります。
中小企業は、大企業に比べて経営者の思いやビジョンが社員に直接伝わりやすいという強みがあります。だからこそ、エンゲージメントを軸に人的資本経営を進めることで、組織の可能性を大きく広げることができるのです。