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「来る仕事は断らない」サービス業としての精神を忘れずに「株式会社南光」

2022年 10月 24日

南の地から光り輝く企業を目指す南光の代表取締役社長・上田平孝也氏
南の地から光り輝く企業を目指す南光の代表取締役社長・上田平孝也氏

鹿児島のシンボル、桜島を望む臨海部の広大な敷地に本社・工場を構える株式会社南光。金属・セラミック加工を手掛ける製造業でありながら、サービス業としての精神を持ち合わせるユニークな経営方針を貫き、最大の危機となったリーマンショックを乗り切って昨年には創業50周年を迎えた。代表取締役社長に就任して20年以上となる上田平(かみたひら)孝也氏は地元企業の経営者団体、鹿児島県中小企業家同友会の活動にも積極的に参加し、現在は代表理事として地域経済の発展にも力を尽くしている。

「ワンストップサービス製造業」で仕事の確保と業務の効率化

建築用インテリアなど多品種少量の加工を行う本社第一工場
建築用インテリアなど多品種少量の加工を行う本社第一工場

創業は1971年。上田平氏の父、勝氏(現相談役)が南光プレス工業として設立した。「南光」という社名には、日本の南の地・鹿児島から光り輝く企業となり、社会に貢献できる企業を目指そうという思いが込められている。実家が銭湯を営んでいたことから、勝氏は子供のころから客商売を間近に見ており、そこで培われたサービス精神は会社設立後も続いた。昔気質の職人は気に入らない仕事を引き受けない、ということがあり、それで困っている客の様子を勝氏は見るに忍びず、どんな仕事でも引き受けたという。「来る仕事は断るな」「南光はサービス業」といった勝氏の口癖は、2001年に父親の跡を継いだ上田平氏が経営理念のひとつ「私たちは、製造業としての誇りは元より、サービス業としての精神を忘れることなく、常にお客様に接し、お客様の信頼に応えます」と明文化された。

製造業でありながらサービス業であるという経営方針から「困ったときの南光さん」と評判になり、営業活動をしなくても受注できたという。一方で、どんな仕事も断らないことで同社では夜遅くまで残業することが日常化していた。働いた分、利益も給料も上がった昭和の高度成長期はそれでよかったが、バブル崩壊後の長引く景気低迷で状況は大きく変わり、給与が上がらない平成の時代では、ひずみが生じていた。

従業員数は235人。働き方改革も進んでいる
従業員数は235人。働き方改革も進んでいる

そこで上田平氏は社長就任後、「仕事は断らない」との経営スタイルを堅持しつつ、仕事の効率化と働き方改革を進めた。まず取り組んだのが社内での一貫生産。かつては、同社の6工場がそれぞれの強みを活かして対応できる仕事を行っていたが、現在は「ワンストップサービス製造業の九州No.1」とのビジョンを掲げ、工場間の連携を強め、設計や加工から組立まで一貫したモノづくりに徹している。一貫生産を行うことで仕事の確保と業務の効率化の両立を図っている。

また人材確保の面からも新しい制度の導入など改革を実施。2005年に始めた「ブラザーズ・シスターズ制度」は、2、3年目の若手社員が新入社員の指導を行うというもの。年齢が近い先輩社員から教えてもらうことで新入社員の定着率が上がるとともに、先輩社員の方も教えることで仕事のスキルが高まった。その後も各種休暇制度の導入や定年延長などを実施。今年9月には「高年齢活躍企業コンテスト」(厚生労働省と高齢・障害・求職者雇用支援機構の共催)で優秀賞を受賞するなど、一連の取り組みが評価されている。

最大の危機・リーマンショックで「雇用を守る」と宣言

社長就任以降で最大の危機は2008年のリーマンショックだった。その前年、アメリカ向けの太陽光パネル生産ラインを受注し、それを受けて同社は設備投資と新卒採用を積極的に実施していた。そのタイミングで襲ってきたリーマンショック。仕事は減少し、太陽光パネルの話も遅々として進まず、最終的には立ち消えに。30億円前後で推移していた年間売上高は20億円にまで落ち込んだ。27カ月連続で単月決算が赤字となり、打撃は長期に及んだ。

危機に直面した上田平氏は不安を抱える社員に対し、いち早く「雇用は守る」と宣言。かわりに役員報酬や従業員の給与をカットして人件費を削減することとなり、ボーナスは3年間出せなかった。退職勧奨は行わなかったが、「これでは生活が守れない」と社員の方から辞めていくことも。また、若手社員を愛知県内の自動車部品工場に出向させた。会社にいても仕事がないため、経験が浅い若手社員に技術を身に着けてもらおうと実施したが、出向期間を終えても戻るのを拒み、そのまま転籍した社員もいた。

県からの依頼断らず志布志工場取得を決断

本社近くにある鹿児島七ツ島メガソーラー発電所
本社近くにある鹿児島七ツ島メガソーラー発電所

瀕死の危機にあった会社の救世主となったのは、リーマンショック翌年の2009年に取得した志布志工場(志布志市)だった。もともとは大阪府内に本社がある自動車部品のプレス金型の製造会社が鹿児島工場として所有していたが、リーマンショックで撤退を決定。工場閉鎖となっては雇用面など地元経済への打撃が大きいとして、工場を引き受ける企業を探していた鹿児島県が、南光に買い取りを持ち掛けたのだ。依頼を受けた同社は、工場が有する金型加工の技術の高さに注目。また、その時点ではアメリカの太陽光パネル生産ラインの案件は先延ばしとなっていただけで、いずれ動き出すとの見方があった。「この技術は太陽光パネルの件で必ず役立つ。なによりも『来る仕事は断らない』という理念から、県からの依頼も仕事として引き受けた」と上田平氏は振り返る。同社の経営状態も苦境にあったが、金融機関からの融資もあり、9000万円で取得した。

結局、アメリカ向けの話は消滅したが、かわって登場したのが同社近くに建設されることとなった鹿児島七ツ島メガソーラー発電所だった。2012年9月着工、翌年10月に竣工した太陽光発電所で、発電出力は70MW。運転開始時点では国内の太陽光発電所としては最大だった。7社によるジョイントベンチャー(JV)で、そのなかの京セラと竹中工務店とは以前から取引があったことから、上田平氏は自社製品の売り込みを開始。懸命な営業努力の結果、納入にこぎつけたのが太陽光パネルを設置する架台だった。その架台には、志布志工場で製造し、薄くても十分な強度を持つ留め具が使用されている。「架台を受注できたことで会社は息を吹き返した」と上田平氏。アメリカ向けの太陽光発電で苦境に陥った同社が皮肉にも国内の太陽光発電に助けられる格好となったが、とりわけ大きな役割を果たしたのは志布志工場だった。

「リーマンショックで仕事がだんだんと減っていくなか、志布志工場の取得に賛成したのは当時の会長だった父と私だけだった。その時の決断が結果的に会社を復活させることにつながった」と上田平氏は話す。

「経営者として鹿児島同友会に育てられた」

飛沫防止用アクリルパーテーションはブンカ巧芸社とのコラボ商品
飛沫防止用アクリルパーテーションはブンカ巧芸社とのコラボ商品

上田平氏は現在、鹿児島同友会の代表理事をつとめる。鹿児島同友会に入会したのは南光の専務に就任した2000年。「それまで経営を学ぶ機会がなかった」という上田平氏は入会後、経営者として考え方や立ち位置を教わったという。経営について悩んだり迷ったりした際には鹿児島同友会の先輩経営者からアドバイスを受けることもできた。「成功談だけでなく失敗談も聞けるのが大変助かる。会員だと伝えれば一面識がなくても話を聞かせてもらえる。私も会員から連絡があれば相談に乗るようにしている」と上田平氏は話す。

鹿児島同友会で築いた人脈が製品作りにつながったケースも。コロナ感染症対策として製作・販売した飛沫防止用アクリルパーテーションは会員企業であるブンカ巧芸社(鹿児島市)とのコラボ商品だ。コロナ禍で不安が広がるなか、「自分たちで役に立てることはないか」と考えた上田平氏は、飛沫防止用のアクリル板やビニールシートを取り付けられる金属製フレームを製作。ちょうど同じころ、看板製作などを手掛けるブンカ巧芸社はアクリル板を製作していた。同社代表取締役社長で鹿児島同友会の役員である峯元信明氏と話がまとまり、両社の製品を合体させてパーテーションが誕生した。最終的に1500個ほどが製造され、オフィスなどで活用されているという。

鹿児島県中小企業家同友会の代表理事として地域経済の発展にも尽力
鹿児島県中小企業家同友会の代表理事として地域経済の発展にも尽力

「入会して20年経つが、経営者として鹿児島同友会に育てられた」と話す上田平氏は会社経営の傍ら、代表理事として鹿児島同友会のPRにも余念がない。「活動の目的は『よい会社、よい経営者、よい経営環境』。いい会社が増えれば雇用も増え、地域経済も発展する。多くの人に鹿児島同友会のことを知ってもらい、会員数を現在の約450社から5年後には1000社に増やしたい」との目標を掲げている。

企業データ

企業名
株式会社南光
Webサイト
設立
1971年
資本金
1億円
従業員数
235人
代表者
上田平孝也 氏
所在地
鹿児島県鹿児島市七ツ島2-1
Tel
099-263-0888
事業内容
建築金物設計・製作・施工、半導体・液晶関連装置の製作・組立ほか