農工連携の先駆者!

宮原隆和(エルム) 第1回「薩摩隼人の郷土愛」

宮原隆和社長 宮原隆和社長
宮原隆和社長

29歳で起業Uターン

「いつの日か故郷の南さつまに帰りたい」

そんな思いを抱き故郷を後にエルム社長の宮原隆和が向かった先は大阪工業大学だった。卒業と同時にコンデンサーメーカーの松尾電機に就職。それから6年後の29歳のとき、弟の照昌の待つ故郷にUターンする。

弟の照昌も大阪の和泉電気に勤務していた。そして、二人は故郷にUターンするに当たって、自分たちが大阪で学んだことを生かせる会社を探したが、見つからず、南さつまに自分たちで会社を作ることにした。二人が大阪で学んだ専門技術は電子回路であった。

照昌は隆和より一足先に帰郷し、母親が営んでいた縫製工場を手伝いながらヤオキ電子を創業し兄の帰りを待ち、隆和は当時世に現れたばかりのマイクロコンピュータ技術を学びながら帰郷のタイミングを待った。

郷里で隆和の帰りを待っていたのは照昌だけではなかった。照昌が消化し切れないほどの仕事も待っていた。仕事とは大手電気メーカーの製品検査装置で、設計の専門家である隆和の手助けが待ったなしの状態だったのである。

鹿児島は昔も今も農業立県であることに変わりはない。地元資本でモノづくりする産業といえば、食品産業ぐらいしか見当たらなかった。確かに工場はそこかしこに立地していたが、ほとんど県が企業誘致した「大企業の鹿児島工場」といった類のもので占められていた。宮原兄弟が地元で起業する思いは、裏返せばモノづくりをする会社が少なく、就職が難しかったことが大きな理由だったのかもしれない。その反発から「鹿児島から世界に部品や材料でなく工業製品を送り出す」会社を作ってみようとの愛郷心に駆られたのである。

独立を目指した宮原兄弟にとってありがたかったのは、取引先の電子部品メーカーに社内設備を自主開発する部門があったことだ。そこにエルムのような開発・設計製造会社の役割もあったのである。

注文があれば何でも作る

宮原が帰鹿した1980年に弟の照昌と共同で設立したエルムの経営理念は明快だった。

「下請けはしない。独自のモノづくりができ、技術者が都市部並みの仕事をできる会社にする」

そんな技術者、宮原の才能はあっという間に開花する。会社を設立して2年後の82年にはパソコンを利用した「気象衛星ひまわり受像装置」を開発する。当時、大手電機メーカーしか作っていなかったハイテク装置を、わずか数人規模の会社で開発してしまったのだった。

さらに2年後の84年、資本金を倍額増資して800万円にするとともに、パソコン用プリンタバッファー「PP-9801」、さらに日本で初めてパソコン用の熟語変換プログラム「KNJ-86」を開発し関係者を驚かせた。

翌年の85年に資本金を2,000万円に増資する一方、新社屋を完成。技術開発も進化させ、パソコン「PC-9801」のベーシック上で作動する熟語変換プログラム「KNJ-9801」の開発に成功。翌86年になると、鹿児島県水産試験場と共同で気象衛星NOAAの海水表面温度画像受像および解析装置を開発。

87年には第1回鹿児島県産業技術賞奨励賞を受賞した「カラービデオチェッカー」を開発するなど、毎年のように画期的な製品開発を成し遂げている。

宮原が地域に貢献したいと、「農工連携」に開発の眼を向けはじめたのもこの頃のことだった。宮原には技術シーズを具現化する実力が備わっていた。「農工連携」は宮原の郷土愛の成せる技なのかもしれなかった。(敬称略)

掲載日:2007年4月 9日