カンロ飴は爆発的なヒット商品となったが、特殊な販売活動を行ったわけではない。「今のように食品スーパーがあるわけでもないし、試食販売のようなマーケティング手法もなかった。問屋セールスと同行し各所の菓子屋に置いてもらう単純な方法で、口コミで広がっていった」(同)と振り返る。
大きなガラス瓶に入れセロハン紙で一粒一粒、両端をひねるキャンディラッピングを施し一粒単位で売っていた。当時の売価は1粒1円の飴商品が多いところを2円と強気に出た。それでも売れた。「甘いだけの飴が多い中で、しょう油を使い味に深みを出したカンロ飴は、日本人の味覚にマッチしていた」(同)と分析する。
宮本製菓は以前「生玉(きだま)」という飴を販売していた。終戦当時には食料物資が乏しく、飴に使われる砂糖も質が劣るものしかなかったため「少し黄色がかった飴がほとんどだった」(同)。その中で宮本製菓は質の良い白い砂糖を使い透明な色の飴「生玉」を生産していた経緯もあり、宮本製菓の品質には定評があった。「『宮本製菓の商品なら扱っても安心』との小売店が多かった」(同)ため、流通ルートの開拓に苦難しなかったこともヒットの要因になった。
伸びる需要を満たすために、1956年には生産工場を新設。以前は従業員が手作業でラッピングしていたが、自動化されたことで生産量は飛躍的に伸びてった。