2026年 6月 26日
「西の西陣、東の桐生」と言われ、日本の近代化を織物で支えた群馬県桐生市に、来年に創業150年を迎える刺繍メーカーの老舗企業がある。糸のみで作り上げた独創的な刺繍アクセサリーで新たな市場の開拓を目指す株式会社「笠盛」だ。繊維産業が縮小するなか、失敗に学び、斬新な発想で数多の危機を乗り越えてきた。笠盛が今、目を向けるのは刺繍のさらなる進化とアジア市場の開拓だ。「次の100年」を目指し、笠盛の「未来航路」は続く。
150年の経営理念を引き継ぐカサモリパーク

桐生市新宿の元計器メーカーの跡地に笠盛の拠点である「カサモリパーク」がある。コロナ禍の2021年7月にオープンし、工場見学やワークショップ、イベントなどを通じて刺繍技術を体感できる施設だ。工場に入ると、糸だけで作った刺繍が目に飛び込んでくる。手に取ると軽くて繊細な肌触り。ネックレスをはじめ、グラスコード、イヤリングなど様々な種類の刺繍アクセサリーが並ぶ。これらの製品は同社が手掛ける刺繍アクセサリーブランド「000(トリプル・オゥ)」だ。「既成概念をリセットし、ゼロから始める」がブランド名の由来で、今や同社の売り上げ全体の6割を占める。同社が約150年にわたり続けてきた「既成概念に囚われない挑戦」という経営理念を引き継いでいるのが、ここ「カサモリパーク」なのだ。
4代目の笠原康利会長によると、笠盛の創業は明治10年(1877年)。曽祖父・嘉吉氏が帯機屋を立ち上げたのが始まりだ。昭和恐慌で借金に追われ、先の戦争で帯の需要は減少するという危機に見舞われた笠盛だが、機械いじりが好きで研究熱心な3代目の父親、勝氏のアイデアが戦後、同社を回復に導く。表裏で柄が異なる帯や、仏教由来の伝統柄を人絹(レーヨン)で織り上げ、手頃な価格で実現した「笠盛献上」を開発し、爆発的にヒット、一時は笠盛組で桐生からの帯の3割を占めたという。
笠原会長は「ものをよく見る、いろいろと見てみる。何か考えたら人に話してみる、そうすれば教えてくれる。アイデアマンだった父からはそんなことを教わりました」と話す。そんな勝氏の真骨頂が発揮されたのが帯事業から刺繍業への転換だった。昭和40年代に日本人の生活様式の変化とともに、急速に冷え込んだ和装事業に見切りをつけ、刺繍業に軸足を移した。このときの決断が今の笠盛につながっている。
「誠心誠意尽くす」営業経験が原点
笠原会長が家業を継いだのは25歳のときだ。大学卒業後、日立グループのソフトウェア企業に就職。エンジニアとしてオンラインシステムの検査を担当し、さまざまなプログラムを組んでいたという。「父親から、いい加減に帰って来いと言われて、家業に入りました。日立の仕事は面白かったんですけどね」。しかし、時は1973年10月。第一次石油ショックが目前に迫っていた。笠盛もその大波にのまれ、受注量は前年の半分に減り、倒産が頭をよぎったという。当時、営業を担当していた笠原会長は「飛び込み営業」を開始し、ひたすら顧客のもとに足を運び、「仕事をください」と頭を下げ続けた。
笠原会長のこの営業手法は次第に実を結ぶ。「イタバシニット熊谷工場の常務に可愛がられ、さまざまな取引先を紹介してくれて顧客が広がりました」(笠原会長)。イタバシニット株式会社はカットソー製品の製造・販売会社だ。「刺繍のこともわからず、営業していた」という笠原会長だが、相手に誠意を見せるという姿勢を貫き、顧客との信頼関係を築き上げた。数年後、石油危機以降ずっと赤字だった同社は黒字に転換する。「相手の悪いところでなく、良いところを見ようと努めた。そうすると相手もこちらを向いてくれるようになるんです」。これは後の笠原会長の経営哲学の原点となった。
インドネシアへの進出失敗し多額の負債
笠原会長が社長に就任したのは1984年。傘のマークで有名なアーノルド・パーマーブランドの刺繍を独占受注したほか、ゴールドウインやミズノなどスポーツ関連の刺繍も加わり、収益は順調に拡大、1996年には売上高が約3億5000万円に達した。この成長を支えたのは、笠原会長の「逆張り」の投資戦略だ。笠原会長はこれまでの経験から「良い時期は長くは続かない。悪くなれば必ず良くなる」という信念のもと、不況期に積極的な設備投資を実施し、好況期には投資を抑制するという戦略に打って出た。不況期に積極的な設備投資をしておけば、好況期にはそれだけ大量の受注が可能になるというわけだ。
同社は円高が進行し日本の市場も縮小するなか、1992年にインドネシアに進出する。イタバシニットから持ち掛けられた話で、同社のインドネシア工場の一角を借りる形で刺繍を手掛けた。現地法人を設立して本格的にインドネシアに進出したのは2001年。「日本市場では、仕事がどんどん少なくなって、インドネシアから世界を目指そうとしました」(笠原会長)。しかし、この目標は失敗に終わる。品質にばらつきがあったことに加えて、取引先の撤退で年間生産量が目標の100万枚を大幅に下回る30万枚まで減少するなど採算が取れず、2005年に撤退を決断した。笠原会長は「結構な負債を抱えた」と振り返る。
再起へ向け一念発起、刺繍アクセサリーで挑戦

しかし、この失敗が刺繍アクセサリーで革新的な挑戦を続ける今の笠盛の姿につながる。笠原会長が再起に向けて考えたのが、「東京拠点の設置」「東京での個展開催」「海外展開」の3本柱。2009年までに2年ごとに順次実行する目標だったという。最大の転機となったのは、2007年にフランスのパリで開催された見本市「モーダモン」への出品だ。この出品に向けて、2005年に入社したデザイナーの片倉洋一氏が中心となって開発したのが、水に溶ける不織布を用いて糸だけで刺繍を立体的な形にする「笠盛レース」である。
軽くて繊細で高級感のある笠盛レースは、見本市の目玉商品となる「ビップ・プロダクツ」に選ばれたほか、アイルランド人の女性バイヤーが笠盛レースで作ったボレロ50着を購入するなど高い評価を得た。ファッションの本場パリで同社の技術が世界に通用することを示したのだ。モーダモンへは6年間にわたり、その都度、ネックレスやブローチ、ボタンなどデザインを変えた笠盛レースを出品した。
笠原会長は「日本の市場もそうですが、続けて出品することが大事です。知り合いになって、初めて購入してもらえるんです」と話す。笠盛レースはヒット商品となり、当時の会社全体の売り上げの1割を占めるようになったという。
自社ブランド「トリプル・オゥ」誕生、下請けから脱却へ

実は今や同社の中核ブランドとなったトリプル・オゥは、このモーダモンがきっかけになって誕生した。刺繍業は基本的にアパレルメーカーの下請け仕事だ。ライバルとの価格競争も激しく、景気が悪化すれば真っ先に影響を受ける。独自ブランドを立ち上げれば、そんな状況から脱却できるのだ。
笠原会長は「トリプル・オゥ立ち上げ当初は既成概念に囚われないものづくりということで、風呂敷やトートバッグ、クッションカバーも作りました」と振り返る。しかし、発売当初は売れるものの、翌年は売れないという現象が出てきた。社内でもアクセサリーに一本化しようという意見が高まり、刺繍アクセサリーに絞り込む決断をしたという。

同社の運命を大きく変えたのは、2013年5月に誕生した「スフィア」だ。糸を何重にも重ねて「球」を形成する同社を代表するアクセサリーシリーズである。スフィアは「糸で球体をつくるのは無理」と一度はお蔵入りしたものの、片倉氏が「笠盛らしいものを」と再挑戦し、挑戦と失敗を繰り返しながら、苦労の末に完成したものだ。スフィアシリーズは、安倍晋三首相(当時)がイスラエルのネタニヤフ首相夫人に贈呈する外交ギフトに選定されたことで、その権威性は一段と高まった。トリプル・オゥの製品は現在約200種類あり、2025年8月期には全売上高約3億2000万円の約6割を占めるまでに成長し、同社の経営基盤を支えている存在となっている。
大阪・関西万博への出展、認知拡大の好機に

笠盛は2025年大阪・関西万博で、中小企業庁と中小企業基盤整備機構が共同で実施した体験型展示「未来航路—20XX年を目指す中小企業の挑戦の旅—」に10月3日から5日間出展し、「伝統の継承と革新エリア」でトリプル・オゥを披露した。万博は関西での認知度を高めたかった同社にとって、絶好の機会となったようだ。
野村文子広報部長は「万博会場のスタッフから『このエリアで一番印象に残ったのはどれですか』というアンケートの質問に『こういうアイテムは見たことがなかった』と、弊社の製品を選んでくれた女子高生がいたようです。万博終了後に大阪の百貨店で実施したトリプル・オゥのポップアップ(期間限定の出店)では、『万博で見た』と実物を見て購入された方も予想以上に多かったです。関西方面にはあまり拡大していなかったので、万博を通して知っていただけたのかなと思います」と振り返る。笠盛会長も「万博への出展は一つのすごいチャンスをいただいたと思っています」と話す。
刺繍の進化とアジア進出、「次の100年」へ

笠盛の売り上げはコロナ禍で一時的に売り上げが低迷し、約2億円まで減少したものの、その後は右肩上がりに成長。2026年8月期には約3億6000万円を達成する見通しで、V字回復を遂げている。しかし、笠原会長は満足していない。
一つはアジア市場開拓だ。コロナ禍前には欧米のギャラリーや美術館の展示会などで刺繍アクセサリーなどを出品していたが、コロナ禍でその機会が失われ、現在は海外の売り上げはほとんどないという。しかし、最近は中国や台湾、韓国からトリプル・オゥの注文が増えている。台湾からは展示会への出品を誘われるなどアジアを中心に知名度が高まっており、アジア市場開拓のチャンスが到来しているというわけだ。
もう一つは刺繍の進化への挑戦だ。「ファッションという枠をもっと広げて考えていけば、まだまだ新しい市場を作れるのではないかと考えています。刺繍は何でもできます。例えば、壁紙に刺繍をして、それを壁に貼るというのもいいですね。部屋を刺繍づくしにするとか、トリプル・オゥ尽くしにするとか、いろいろとやりようはあると思います。これに刺繍できないか、あれに刺繍できないか、といつも考えています」(笠原会長)
笠原会長の念頭にあるのは、変わらなければ、繊維産業そのものが衰退していくという危機感である。笠原会長は従業員に対しても、「どんどん失敗していい、もっと挑戦しろ」と、事あるごとに伝えている。そこには斬新な発想で数多の危機を乗り越えてきた笠盛のレガシーが息づいている。2019年には、社長に突破力を買って同族ではない櫻井理氏を抜擢した。笠原会長は「社内の従業員から次の社長が出てくるような組織にしたい。刺繍に特化せず、全く新しいライフスタイルを提案してもいい」と話す。約150年にわたる笠盛のレガシーは「次の100年」も継承され、その成長を支えていくに違いない。
企業データ
- 企業名
- 株式会社笠盛
- Webサイト
- 設立
- 1950年7月(創業は1877年3月)
- 資本金
- 1000万円
- 従業員数
- 39人(パート含む、2026年6月1日現在)
- 代表者
- 代表取締役会長 笠原康利 氏 代表取締役社長 櫻井理 氏
- 所在地
- 群馬県桐生市三吉町1-3-3
- 事業内容
- 刺繍中心のOEM事業と自社ブランド事業「000」



